羽子板の歴史について

羽子板は、いつ頃から始まったのでしょうか?
それは、だいたい室町と言われる時代に外国のおもちゃとして入ってきたようです。お正月にお城の遊びとして男組と女組に分かれて勝負をし負けた組が勝った組にお酒を配って宴会をしたようです。この羽根つきは大人の人たちの遊びだったようです。本来は子供の遊びではあります。では何故お正月に羽根つきをするのでしょうか?

お正月に羽根つきをするのでしょうか?

その昔、羽子板は、羽子木板(ハコギイタ)と呼ばれていて、これがだんだん略されて『コギイタ』と呼ばれるようになりました。
この『コギ』という言葉は、中国では『トンボ』を意味していたそうです。
昔は、夏にでてくる『蚊』は大変恐れられていて『蚊』に刺されると悪い病気が伝染して多くの人が命を落したと言われています。現代のように病院や良い薬なんてありませんでしたから多くの人が蚊を恐れていたようです。その恐ろしい蚊を食べてくれる昆虫として人々から愛されていたのが『トンボ』だったようです。羽根つきで使う羽根の飛ぶ様子が『蚊』を食べる『トンボ』のように見えるので、お正月に羽根つきをすると夏には蚊に食べられないという厄払のおまじないだったそうです。
また羽根についている実、これを無患子といい『患わ無い子』という意味があり羽根がトンボに似ていることも羽根の重りに無患子を使ったのも子供達の無病息災を願う気持ちが込められていました。
 
     
  押絵羽子板の押絵とは?

押絵羽子板の押絵とは、型の上に綿をのせて布でひとつひとつ包むことを押絵と言います。
この押絵は、だいたい江戸という時代にお城の中にいる女性達(お姫様やお女中さん)の間で押絵が流行したそうです。この頃から歌舞伎も人気がでてきて現代で言うプロマイド(写真)の代わりとして羽子板に押絵を取り付けるという形が出来上がったようです。ちなみに羽子板は分業で作られていて顔を描く面相師・羽子板の体を作る押絵師、板を作る板師がいます。板は1枚でなく3枚の板を合わせて1枚にしています。裏面には竹・梅・太陽などおめでたい絵が描かれてます。大きさは小さいもので18cmより180cmくらいまでで年間におよそ1万本くらい作っています。
 
     
  羽子板には流行があるのをご存知ですか?

@ 顔(かお)
昔は男の人が女の人の役をやる事が多かったので細い目が流行っていましたが現代では、ぱっちりとした目が流行しています。
A 形(かたち)
昔は板の中にすっぽりと入った形が定番でしたが現代では、板からはみだして大きく豪華になり綿もしっかり入り、ふっくらとした形が流行しています。
B 生地(きじ)
昔は現代のように暖房の整った家なんてなかったので赤やオレンジなどの見た目が暖かい色が多かったのですが最近では、白・青・水色・紫などの涼しい色の羽子板も売れています。
 
     
  羽子板を贈る風習について

羽子板というのは昔から女の子の赤ちゃんが生まれて初めて迎える『お正月』におじいちゃん、おばあちゃん、親戚が贈る習慣があります。
昔は、なかなか生まれてから1歳の誕生日をむかえることが難しかった為、『病気にならないように』『ケガをしないように』と子供の無事を願い邪気を跳ね除けすこやかに成長してほしいという温かい親心が込められています。
 
     
  春日部の羽子板が特産になった理由とは?

どうして春日部で羽子板が特産となったのかというと最初は東京方面で主に羽子板は作られていましたが1945年(日本の終戦の年)今から70年以上前に私たちのひいおじいちゃん、ひいおばあちゃん達の時代、戦争がありました。その時に東京が空襲により焼け野原になってしまったんです。

その頃は家も食料もままならず羽子板を作る職人さん達も羽子板の材料がなくなってしまい、材料を求めて探し歩いたそうです。

その結果、羽子板の材料で大事な桐が春日部にあったと言うことがきっかけで職人さんが東京から春日部に移り住んだことで羽子板が春日部で多く作られるようになった為、ここ春日部の特産品としてなったようです。
 
 
   

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